クラウンフォックスの歩み
 平成元年、さかえクラブ代表の川とチャターミルミルズ代表ヒロシが、ヤマリン、なるデンとともにクラウンフォックス設立。当時はユニホームがないのはもちろんのこと、チームの人数もそろわず、大会当日人数をぎりぎりそろえていた。(一度だけ、マサシという人物が当日すっぽかして大会棄権となったことがある)。
 当時の本拠地は上尾市のプリンス球場(左の写真参照)。あの時は一時間350円くらいで借りていたが、お金がなかったので、いつも1時間くらいしか取らず余計に使用していた。あとで管理人(名前は忘れた)に『またお前たちか』とよく怒られた。現在プリンス球場は解体され、『パパ』となってしまった。
 チームをしっかりした組織にするためには、きちんとしたユニホームが必要であり、当時念願のユニホームを作った(右写真参照)。当時、川が日ハムファンであったことから、オレンジを基調としたユニホームにした。
 設立から2〜3年後、ようやくこのころから友人やその知り合いを伝って固定されたメンバーが形成された。しかし仲間内のメンバーであったためチームに対する帰属意識が薄く、少しずつメンバーがいなくなってしまった。
 そこでチーム力を上げるべく、幅広くメンバーを増やしていこうと新聞や雑誌にメンバー募集を載せることになった。(このころ入ったメンバーが勉氏)。
 このころ強力なメンバーが入り上尾大会念願のBリーグ入りを果たす。またマネージャーもたくさん入ってきてクラウンフォックス野球部は黄金時代が始まった。
 チームが大きくなるにしたがって、バレーボールチーム(クラックス)を設立(男女混合)。また女子野球チーム(クラリオンズ)を設立(クラウンフォックス、クラックス、クラリオンズとなぜかすべて『クラ』で始まるネーミングにした。当時女子野球チームは非常に珍しく取材がきたほど(残念ながらそのときの新聞、写真が見つからない)。
野球チーム、マネージャー、バレーボールチーム、女子野球チームのほか、わけのわからない団体をあわせるとチームメイトは多いときで50人以上はいたと思われる。クラウンフォックスグループは全盛期を迎える。
左の写真は屋形船での風景。みな一同に集まって、チームメイト同士楽しく交流を深めていた。
 (写真は当時チーフマネージャーの長さんが退団するときのお別れ会)バレーボールチームのリーダーヒロシの怠慢およびクラリオンズのリーダー宮さん、当時のチーフマネージャーの長さんの退団により、つられて退団していくメンバーが増えてクラウンフォックスグループは大幅に規模を縮小していった。
 このころ、クラウンフォックスは野球チーム一本で行く方針に方針転換。新たにメンバーを新聞雑誌等で募り新新クラウンフォックスにて再スタートを果たす。チームの結束力を高めようと、なんと西武ドームを貸切して、試合を行った。(2時間20万円)当初当然のことながら西武球場での対戦相手がなかなか見つからなかったが、ようやくお医者さんのチームが承諾していただき試合ができた。
現在においてもメンバーの入れ替えはあり、また少人数ながらも設立以来19年の現在においても野球活動を続けている。(平成19年現在)